三線は真壁型が圧倒的に多い理由

真壁型

 

昨日の記事(三線の型選びを考える)に書いたように、三線の型の中で最も多く流通しているのが真壁型ですね。
真壁型は大正期から急速に量産されるようになったといわれていますが、これは三線の名器中の名器といわれる「開鐘」の存在と大きな関係があるようです。

「開鐘」とは

開鐘(”けーじょー”と読みます)は、三線の名器の代名詞として現在広く知られています。
開鐘が広く知られるようになったのは、1916年に開かれた展覧会で三線の名器が展覧され、それを琉球新報が記事で伝えたことが発端となっているようです。

記事の全文は次のとおりです。

五開鐘と云うのは何れも沖縄に於ける斯界の第一人者真壁里之子(まかべさとのし)の作であるが、尚穆王(しょうぼくおう)の御代御茶屋に真壁作の三味線を集めて弾比べをした処が、九つとなり八つになり、夜が更けるにしたがって大抵の物は音色が悪くなる。独り夜がふけるに従って音色が衰えないのみか、暁を告げる開鐘が山々を伝はって響き渡るようになっても、いやが上にも美しい音を出したのが五挺ある。そこでその五挺が真壁の作での優秀な物と定まって、孰れも徽章を授けられた。五開鐘と言うのはその五挺を指すのである。此の五開鐘の中でも音の荘重なのがあり、軽快なものがあり、それぞれ特色があるが、盛島開鐘が五開鐘中の首座とされて居る。今度陳列されたのは、右の盛島、西平、湧川、熱田、翁長の五開鐘中の、盛島、西平、熱田の三開鐘である。
(琉球新報1916年(大正5年)4月17日号)

真壁作の三味線を集めて弾き比べをして、開鐘が鳴り響く暁まで良い音色を出した五挺に徽章が授けられ、五開鐘というようになった、という内容ですね。

これによると、三線の名器の代名詞というよりは「真壁作の名器の代名詞」というのが適切なようです。

三線の名器=真壁型?

この記事によって真壁型が広く知られるようになったというのは、大正期から真壁型が量産されるようになった、ということと時代的に符合しますね。

時を経て、1959年に出版された『琉球の音楽芸能史』(山内盛彬著)では、尚穆王のころ多数の三線を集めて弾き比べして最後まで残った五挺が尚家の五開鐘の起こり、と紹介しています。
また、1993年に出された「歴史資料調査報告書Ⅶ 沖縄の三線」では、真壁型の解説で「開鐘と呼ばれる名器は、真壁型に限られています」とあります。

あれ、なんだかちょっとニュアンスが変わってきたように感じますね。
「真壁作の名器=開鐘」が徐々に「三線の名器=開鐘=真壁型に限る」に変わってきたような。。
Wikipediaの「三線」の項でも
「良く鳴り響く三線を明け方に突く鐘の音(開静鐘)に例えて開鐘と呼んだ。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。」
と記載されているように、いつしか「名器は真壁型のみ」であるような錯覚を覚える記述があちこちにあります。

今回参照した又吉教授の論文では、”開鐘は真壁型だけであることを殊更に強調し”たことが近年の「総真壁型」という流れに影響を与えてきたと危惧されています。

弾きやすさや音色が時流に乗ったこともあるのかな

真壁型の特徴から見てみるとどうでしょうか。

典型的な真壁型は細身であるため、手が小さくても弾きやすいということもあるかもしれません。
細身であれば同じクルチを使用しても、他の重厚な型より軽く仕上がるため、立ち弾きもしやすいですしね。
また、一般的には比較的軽快で澄んだ音色であるため、戦後流行した新民謡を奏でるのに適していたこともあるでしょう。
音色や弾きやすさが時流に乗ったともいえるでしょうか。

私は真壁とユナーを持っていますが、確かによく手に取るのは真壁の三線ですね。
ユナーは重く感じますから、外に持ち出すときはとくに軽い方を選んでしまいます。年のせいでしょーか(苦笑)
冒頭の写真は、漆の塗り直しを先月完了した私の真壁です。そう、ひどい割れだらけだったあの三線(参照記事:私が三線作りを学んだワケ)。ようやく納得いく状態まで復活できました。

ということで、今回は真壁型に関連したウンチクでした。
最後までお読みいただきありがとうございます!

参考:
・歴史資料調査報告書Ⅶ「沖縄の三線」(沖縄県教育委員会)
・『沖縄の三線』に記録された沖縄三線の統計的特徴(沖縄国際大学 又吉光邦教授)